ひとりごと

(essay)

遠くで起きていることに対してどう反応するか

地つづき
神岡 真拓2026.05.22

地つづき

夏前、というのもあって、家の裏庭にある畑として使われていたであろう土地を復活させるべく、妻と東京に住む弟を呼び寄せて畑仕事をした。弟は農業高校出身で、僕より何倍も自然に詳しい。ホームセンターでやや武勇伝混じりの農知識をありがたく頂戴しながら、言われた通りに堆肥や農耕具を買った。

数年放置されていた庭は、掘り返すと縦横無尽に横たわる蔦のような根が。土質が良いが故に、根も伸びる。一長一短。四苦八苦しながら、ひとつひとつ掘り返しては文字通り根絶やしにしていく作業。骨が折れる。堆肥を撒き、鍬で醸す。ふわっと漂った土の匂いに、本来これを感じて生きたほうが自然なんだよな、と直感的に思う。

グラフィックデザインを仕事にして気づけば7年が経つ。つくづく豊かさの上に成り立った仕事だと感じる。人が何かをはじめる時。はじめたことを伝えたい時。そういうことに立ち会えるのは、当たり前なことじゃない。貧しくなれば、デザインに割く予算も当然なくなる。人間が食べていくことだけで精一杯になってしまったら、そもそもデザインが必要という感覚がなくなる。極端かもしれないけれど、デザインはきっとその時一番最初に淘汰される仕事なんじゃないかと思う。画面と向き合い時間をかけてつくったデータは、お腹を満たしてくれるわけではない。土に近い仕事の方が、この先も揺らがないよな、などと考える。デザインはどうせ好きで得意でやめ(られ)ないだろうけれど。

食卓に自分の畑で採れた野菜が並ぶ風景を想像しながら、どんな苗を植えようかと話す。友人からとうもろこしの苗をもらえるという話がちょうど良く上がったけれど、虫対策など割と難易度が高いらしくて断念した。併せて植える野菜も選んだ方がいいらしい。たとえばシソとトマトはお互いによく働く。うまく育ってくれることを期待する。小さく期待できるって、豊かなことだね。

「この夏は40度の酷暑が続出しますね」と、ニュース番組でコメンテーターが乾いた声で話している。畑にとっても由々しき時代である。夏に向けて育てる野菜がしっかり育ってくれるか心配をする。ニュースは続けざまに海上を漂うタンカーを映す。目の前の風景からはなかなか想像ができないようなことが、地つづきの世界でたしかに起きている。

画面の中で、海の向こうのあれこれが、目の前の風景と同じくらいの大きさに見える。げんなりしながらも、ふと現実に目を移せば、窓の向こうでは草木が揺れ、土が呼吸する。それを見て少し、ほっとしながら、ぞっとする。

汽水域
加藤 大雅2026.05.15

汽水域

先日河口を見に行った。

文化人類学を専門にする津田さんと一緒に企画した「生活に水」というプロジェクト。その一環で行った、秋田にあるスケールの大きい水をめぐるフィールドツアーの中で、いつも眺めている川が、海に注ぐところを見に行った。

舗装された道路を折れて木々に挟まれた小道を進んでいくと、路面には大きな鉄板のようなものが敷かれているところに出くわす。「これ、風力発電の風車を解体する工事をやってて、その重機が通るためのものなんすよ」と津田さんが教えてくれる。200〜300m進んだくらいのところで、やわらかく乾燥した砂地が現れる。その先にその風車は立っていた。

昨年、風の強い日にその風車は折れた。回転する3枚の羽、その1枚が折れて地面に落下した。その近くで高齢の男性が、頭から血を流して倒れているのが見つかり病院に搬送されたが、間もなく亡くなった。朧げに記憶していたニュースの現場がそれだった。今月にも海沿いで一本折れたと新聞にあった。県知事が「安全性を疑問視する」との声明を出していた。 以前、組み立てられる前の部品(おそらく胴体となる柱)が横たわっている、その近くを沿うように車で走ったことがある。『2001年宇宙の旅』の猿が見たら卒倒しそうな、とてつもなく巨大で直線なそれは、遠目で見るのとはまったく違った印象で圧を放っていた。それをみて、秋田に遊びにきた友人が、海岸線沿いに立ち並ぶ風車群をみて、「エヴァの世界線だよ」とこぼしたのを思い出した。 眼前の風車は、どこか寂しげだった。

沈黙する風車を横目に波打ち際を目指す。久しぶりに砂浜を歩いた気がする。足をとられる感覚が懐かしい。海は風がなく、波も穏やかで、全体的に凪いでいる。さいきん考えているのは「中国や韓国、ロシアの人たちはこの海をなんて呼ぶんだろうか」ということ。 海岸線を右に歩いていくと、まさに「川が海に注ぐところ」に出る。汽水域という言葉を知ったのは数年前に友人が出した写真集で。汽水って言うけれど、海水と淡水の境はどこなんだろう。水に指をつけて、その塩分濃度を確かめながら歩いたらわかるんだろう、か。

海はぜんぶつながっている、と言うので、この海から出てずっと泳いでいけば、封鎖されている海峡にもたどり着くのだろう、か。 不安定な石油供給が続けば、安全性に問題のある風車であっても次々に建設されるのだろう、か。 その間にある、取るに足らない私たちの生活は、あっという間にその波にさらわれてしまうのだろう、か。

ふと足元をみると、流木がある。つるりとした肌を持つよじれた身からいくつかの手足が流れるように出ているそれを美しいと思う。その近くにあった、これまたつるりとして紺とグレーの小石と一緒に拾って、来た道を戻る。

風みたい
星野 文月2026.05.08

風みたい

まぶしくて目が覚める。自室の南側の窓にはレースのカーテンしかないので、この時期になると朝日が無理やり私を起こしてくる。ベランダで歯磨きをする習慣はこの家に越してきてからついたもので、しゃかしゃかと自分の奥歯を磨く音と、小鳥がせわしなく鳴く声を両方の耳で聴く。 ラジオを流しながら、洗濯機を回して、そのあいだに溜まった昨晩の洗い物をする。春先に買った多肉植物の元気がない気がして、水をたっぷりとあげたあとで、水のあげすぎは多肉植物にはよくないと誰かが言っていたことを思い出す。

自転車に乗って、いつもの喫茶店に向かおうと家を出る。松本城のあたりに異様に人がいて、その瞬間、世間はゴールデンウィークなのだと理解した。人も車もずらりと連なっていて、自転車では通れそうにないので、歩行者と同じ足並みで自転車を押して歩いた。 目当ての喫茶店はすでに満席で、外にも並んでいる人がいた。大型連休ということを忘れていた私がよくないのだ。チェーン店なら……と思って移動すると、入り口付近で順番待ちをしている家族の姿が見えて、がーーーんと頭を殴られながら、旋回してまた自転車を漕いだ。 ときどき行く観光客どころか他のお客さんもいないがらんとした商店で、巻き寿司セットとお茶を買った。敷地が広い神社の、一番おおきい木の陰に座って食べる。蟻がどんどん足にのぼってくる。だけど気にしない。私も大木になったような気分で、おおらかに座っている。 巻き寿司の桜でんぶをちょっとつまんで、蟻にあげてみた。蟻はピンク色を口に咥えてどこかへ行った。桜でんぶって何なんだろう。巻き寿司以外の使い道はあるのだろうか……とか考えていたら、別の蟻が背中の方までのぼってくる。振り払いたくなる気持ちを抑えてじっとしている。じっとしていれば、蟻なんてそのうちどこかへ行ってしまうのだから。

高校生のときも、社会人になってからも、昼休みになると学校や職場を抜け出して、近くの神社でいつもご飯を食べていた。大きな木と、その木陰があればじゅうぶんだった。 高校の近くの神社には、大きな石碑があった。いつでもひんやりしていたので、夏になると背中やほっぺたをくっつけて涼をとった。図書館で借りてきた古い本からは、へんなきのこみたいな匂いがした。 職場の近くの神社は、いつも三匹の猫が階段に等間隔に並んでいた。「猫三銃士」と勝手に名付けて、慕っていた。

あるとき、ベンチで隣り合わせた小学生が鞄からおもむろに『鬼滅の刃』を取り出して音読をはじめたことがある。私はミックスフライ弁当を食べながら、その朗読に耳を傾けていた。 「胸を張って生きろ!」まっすぐな声がして顔をあげる。口まで運びかけたイカフライがぽとりと米の上に落ちる。 彼はいそいそと本を鞄にしまって、颯爽と私の前を駆け抜けて行った。風みたいだった。