目がかゆい。鼻が垂れる。頭がぼうっとして、次第に気持ちにも靄がかかる。春、好きだったのになあ。錠剤が苦手すぎて薬飲むこと自体が億劫な方なので、それ故に花粉の洗礼を直に受けている。
それにしても、医者からもらう目薬というのはすごい。市販のものと何が違うのかわからないけれど、スッと目から体に入ってくる感じがする。目で飲んでる感じ。あと染みない。それでいて効き目が長い。普段薬から縁遠い生活をしているから、この春に初めて実感した。ちなみに、この目薬は妻が病院でもらってきたものなので、僕のではない。人の目薬を借りて新しい発見をする。なんだかいやしい気もするけれど、知らない世界を知るきっかけというのは、外からやってくるものだったりする(と言い聞かせる)。
季節そのものに対して、どことなくものさびしさを感じるようになった。春に限らず、歳を重ねるに連れて季節を素直に喜べなくなっていく。夏はうだるような暑さに伏せ、秋はきたる冷え込みに心がきゅっとなる。冬は冬で雪に憂う気持ちを抱き、あたたかさを運んでくる春さえもなんだか嬉しくない。子どもの、何もかも新しくて鮮やかに映っていたあの頃。振り返れば、夏の暑さも冬の寒さも心から楽しんでいたのに、それがいつからか外の刺激を避けるように、箱に収まったような感覚がある。
昨年、絵の展示をしたときに「からっぽ」というタイトルを自分でつけた。その頃は、自分の内に何もない気がしていた。花を見て「楽しそう」とか、空を見て「高いな」とか、そういう琴線は昔からはっきりとある方だと思う。けれど時折、理由もなく胸の奥が真っ暗になって、琴線も何もないような感覚に陥って、しばしば不安になる。
からっぽな僕がする表現は身のあるものになるのか、そもそも表現をすること自体許されるのか。決して床に臥すくらい落ち込むわけではないけれど、どうにもこうにも、今にも未来にも光を感じられなくなる瞬間。けれどきっと、そのからっぽな瞬間があるからこそ、表現の根源的なエネルギーにつながっているのかもしれない。展示はそんなことを思いながら、ある少年が自分の内なる感情を探し、時に周りに教えてもらう小さな絵本に仕立て、イラストを抜き出して飾った。
「このからっぽで、何を味わおう。」
普段なら筆を持たないことを選んでしまう、そんなタイミングで、自分を受け入れてあげたくて形になった表現だったのだなと、絵本の最後の一文を読み返して思う。
朝、出勤までの道を少し遠回りして、近くにある小学校の横を通ってみる。8分咲きといった頃合いの桜の下を、子どもが駆けまわる。季節を胸いっぱい吸い込んで、体力の限り目一杯駆けまわっている。くったくのない遊びごころが羨ましい。きっとこの子たちは、自分の箱の形なんてまだ知らない。むしろ箱をつくるように、ただ素直に遊んでいる。
経験が増えれば増えるほど、自分の箱の大きさや形がわかってくる。大人はそうやって要領を得ていくものなのだろう。自分が「からっぽ」と感じられるということは、自分の箱の大きさを知っているという意味では経験を積んできた証なのかもしれない。けれど、要領ばかりよくなってはどんどん箱の中にとどまってしまうじゃないか。「からっぽ」な状態に惑わされずに、箱から飛び出す遊びごころ。青空のもと子どもが遊ぶ風景から、大切なことを教わった気がした。
季節のものさびしさを憂う前に、箱に収まる前に、もっと前のめりに童心にかえって楽しむことができたら。この春から、仕事も生活も、もっと無邪気に駆けまわってみようと思う。せっかくからっぽなのであれば。


