ひとりごと

(essay)

01

からっぽ
神岡 真拓2026.04.24

からっぽ

目がかゆい。鼻が垂れる。頭がぼうっとして、次第に気持ちにも靄がかかる。春、好きだったのになあ。錠剤が苦手すぎて薬飲むこと自体が億劫な方なので、それ故に花粉の洗礼を直に受けている。

それにしても、医者からもらう目薬というのはすごい。市販のものと何が違うのかわからないけれど、スッと目から体に入ってくる感じがする。目で飲んでる感じ。あと染みない。それでいて効き目が長い。普段薬から縁遠い生活をしているから、この春に初めて実感した。ちなみに、この目薬は妻が病院でもらってきたものなので、僕のではない。人の目薬を借りて新しい発見をする。なんだかいやしい気もするけれど、知らない世界を知るきっかけというのは、外からやってくるものだったりする(と言い聞かせる)。

季節そのものに対して、どことなくものさびしさを感じるようになった。春に限らず、歳を重ねるに連れて季節を素直に喜べなくなっていく。夏はうだるような暑さに伏せ、秋はきたる冷え込みに心がきゅっとなる。冬は冬で雪に憂う気持ちを抱き、あたたかさを運んでくる春さえもなんだか嬉しくない。子どもの、何もかも新しくて鮮やかに映っていたあの頃。振り返れば、夏の暑さも冬の寒さも心から楽しんでいたのに、それがいつからか外の刺激を避けるように、箱に収まったような感覚がある。

昨年、絵の展示をしたときに「からっぽ」というタイトルを自分でつけた。その頃は、自分の内に何もない気がしていた。花を見て「楽しそう」とか、空を見て「高いな」とか、そういう琴線は昔からはっきりとある方だと思う。けれど時折、理由もなく胸の奥が真っ暗になって、琴線も何もないような感覚に陥って、しばしば不安になる。

からっぽな僕がする表現は身のあるものになるのか、そもそも表現をすること自体許されるのか。決して床に臥すくらい落ち込むわけではないけれど、どうにもこうにも、今にも未来にも光を感じられなくなる瞬間。けれどきっと、そのからっぽな瞬間があるからこそ、表現の根源的なエネルギーにつながっているのかもしれない。展示はそんなことを思いながら、ある少年が自分の内なる感情を探し、時に周りに教えてもらう小さな絵本に仕立て、イラストを抜き出して飾った。

「このからっぽで、何を味わおう。」

普段なら筆を持たないことを選んでしまう、そんなタイミングで、自分を受け入れてあげたくて形になった表現だったのだなと、絵本の最後の一文を読み返して思う。

朝、出勤までの道を少し遠回りして、近くにある小学校の横を通ってみる。8分咲きといった頃合いの桜の下を、子どもが駆けまわる。季節を胸いっぱい吸い込んで、体力の限り目一杯駆けまわっている。くったくのない遊びごころが羨ましい。きっとこの子たちは、自分の箱の形なんてまだ知らない。むしろ箱をつくるように、ただ素直に遊んでいる。

経験が増えれば増えるほど、自分の箱の大きさや形がわかってくる。大人はそうやって要領を得ていくものなのだろう。自分が「からっぽ」と感じられるということは、自分の箱の大きさを知っているという意味では経験を積んできた証なのかもしれない。けれど、要領ばかりよくなってはどんどん箱の中にとどまってしまうじゃないか。「からっぽ」な状態に惑わされずに、箱から飛び出す遊びごころ。青空のもと子どもが遊ぶ風景から、大切なことを教わった気がした。

季節のものさびしさを憂う前に、箱に収まる前に、もっと前のめりに童心にかえって楽しむことができたら。この春から、仕事も生活も、もっと無邪気に駆けまわってみようと思う。せっかくからっぽなのであれば。

この冬、どうだった
加藤 大雅2026.04.17

この冬、どうだった

この冬は本当になにもしなかった。し、できなかった。

12月まではなんとか意識を保っていたものの、年末年始を経て完全に開店休業状態。週末が来れば店を開けるし、仕事として予定されていたものはやった。けれど、能動的に、主体的に何かに取り組んでいたかと問われれば、答えはぜんぜんNOだった。

その期間、書くということをほとんどしていなかった。店で毎月発行していた通信は「今月こそ出さないと……」という機会を何度逸したことか。ひとりごとのニュースレターも昨年末で一旦おやすみということになり、これまで機能していた書くための仕組みが失われていった。

その間に、どんどん雪は積もり、寒さの底で身体と脳はどんどん働かなくなっていく。さいきんYouTubeでヤクーツクという、地球上で最も寒い都市で生活する人々の生活をドキュメントする動画が流れてくるようになった。マイナス64℃、みたいな環境の中で頑張って生きている人もいるのだ、と自分に言い聞かせるのだが、寒さって相対的じゃなくて絶対的なものなんだよな…という気持ちにしかならない。

そういえば、冬の間に引っ越しをして、暖かくて小さな平屋暮らしがはじまった。前に住んでいたアパートが本当に寒かった、と妻はずっと言っていたけれど、確かにここに越してきて、断熱性能とストーブのある環境のおかげで、暮らしの水準はぐっと上がった。

冬の間も根子には通っているけれど、あちらの家はほんとうに寒い。東京から移住して、その家の暮らししか知らなかった頃は、室内で息が白かったとしても「こういうものか」と(いま思えば)我慢できていた。それが今となっては、夜中に何度も目覚めるくらい、暖かくないとだめな身体になってしまった。暖かければそれで十分、というのは言い過ぎかもしれないが、一理あると思う。

思えば、ニュースレターひとりごとの最初の問いが「この冬、どうだった?」だったね。こうして振り返ることができるのは、春がここまで来ているから。春分を過ぎ、最後の雪がちらついたあとは、ばっけ(フキノトウ)があちこちで開き、一面田んぼの景色は春霞んでもやっとしている。

そんな景色に背中を押されるように、少しずつ、すこしずつ、氷が解けていく。

春未満
星野 文月2026.04.10

春未満

ここ数日は春の予感がするような日があり、今日はあたたかくなることを期待して外に出たんだけど、ちょうど冬と春の中間という感じの気温。風がつよい。

こんな気温だと気持ちをどこに落ち着けたらいいのかわからなくて、あてもなくただ街をうろうろしてしまう。街を歩いている人のそれぞれに行き先があるような気がして、うらやましいような、妬ましいような、よくわからない気持ちが湧いてくる。

ひさしぶりにスマホを置いて歩いてみると、これまで目に入ってこなかったものに自然と目がいくことに気が付いた。近所の、冬までは建物があったところは更地になっていて、そこには小さな木がぽつぽつと植えられている。更地はどうせ駐車場かマンションになるのだろうと思っていたので、少しだけ気持ちが明るくなった。ちなみに植えられていたのは南高梅と白加賀梅などで(木を支える棒に手書きで記されていた)その種類もなんだか好ましいような感じ。

まだまだ蕾のようだけれど、もう少しあたたかくなったら咲くだろうか。それとも木として成長した数年後に花をつけるのだろうか。いずれにしても見守るのが楽しみ。ささやかな楽しみが増えることが一番うれしいな。

そういえば、少し前に西の方へ行ったときには、夜道に木蓮の花がばふばふと咲いていた。

わたしが見たのがたまたま夜だったというだけで、別に夜に咲くわけじゃないんだろうけど、なんとなく白い木蓮の花びらが月に向かって咲いているように見えた。だから、夜と木蓮のイメージが重なって、夜の中で発光するように咲く花、という印象がある。

調べてみると、夜にだけ咲く花ってけっこうあるみたい。夜にだけ香りを放つ花もあるらしい。

最近は、もっと身の回りにある植物や鳥の名前を知りたいなと思う。自分でも植物や野菜を育ててみたい。自然とそういうことに興味が湧いてきたのは、これまで興味を持っていたことに飽きてきたこともあるし、自分の中に少しだけ時間の余裕が生まれたこともあるだろう。

昨年も「ベランダで野菜とか育ててみたいなあ……」と思いながら、気がつけば春を過ぎて初夏になっていたので完全に乗り遅れてしまった。そのことが地味に尾を引いて、一年中どこかずっと悔やまれる思いがついてまわったので、今年はもう既にいくつかの種と土を入手している。

プチトマトとか、オクラ、朝顔やバジルなど、身近にあったらうれしい植物や野菜を、育てやすさを基準に選んでみた。

友だちは分譲で貸し出している畑を借りているので、そういうのも検討してみたけれど、まずは気楽にはじめられるところから。わたしはとても飽きやすいし、飽きるとすぐ続かなくなる性質なので、何よりも気楽さと楽しさが両立することが大事だと学んだ。続かなくなると過度に落ち込んだりもするので、まずはやってみることが大事!という気持ちも事前に携えておく。

どこかで何度も書いている気がするけれど、わたしは昔から春が苦手だった。新学期とか、新年度とか、まわりがそわそわ動きだす雰囲気がとにかくだめで、未だに春になるとあの頃の空気を思い出して落ち着かなくなってしまう。

何かに溶け込まなきゃとか、自分だけ浮いて見えないように振る舞わなくてはとか、そういうことを思っていたのかもしれないなあ。

もういい加減気にしなくてもいいような気がするのだけれど、心に自然とわき立つものに関してはどうすることもできなくて「あ、また春がきた」と心が察知すると、自分の足元がぐらぐらと揺れておぼつかなくなってしまうような感覚に陥る。

だけど、ここ数年で自分のまわりにあるものが、手の届く範囲に収まってきたような感覚を得るようになってきた。少しずつ家の植物を増やしたり、近所の人と知り合いになったり、自分の手で作品を作って販売したり、そういう感覚を大切にするようになってきた。

仕事も詰め込みすぎないで、ちゃんと休みを入れたり、時期が重なっていたら断るようにしたり。一度体を壊したこともあって、何をするにもまずは、基盤になる生活が快適に送れるかどうかを基準に考えるようになった。

そのことが関係しているのかどうかはわからないけれど、今年は今のところ春があまり憂鬱ではなくて、むしろちょっと待ち遠しく思っている自分がいる。

これまでに感じてきた春への物憂い気持ちは、きっと手に追えない大きなものに自分がさらわれてしまうようなおそろしさだったのではないかと考えている。外部の変化に自分を馴染ませなきゃいけないことが億劫で、億劫と言う割にはすんなり適応してしまう自分のこともなんだか嫌だった。

だけど、そんな日々も思えば遠く、今のわたしの指のあいだを風はすうすうとすり抜けていく。これはまだ、春風と呼ぶには早いだろう。

いつだって変化は一瞬で訪れるように見えるけれど、見えないところではじわじわ動きながら、ものごとはゆっくりと移行していく。

春が来る手前のほんの一瞬の季節。色をのせる前の塗り絵みたいな街は、あと数週間もすればあざやかに色付いて、すっかり別の景色に変わるだろう。

わたしの今のこの気持ちも、その頃になればどこか遠くで、散り散りになっているだろう。

No.01 | ひとりごと